シリア
ダマスカス→パルミラ(バス)
基礎データ(2018外務省HPより抜粋し一部加筆)
1.面積:18.5万平方キロメートル(日本の約半分)
2.人口:2,240万人(2012年世銀)
3.首都:ダマスカス 171万人(2009年度)
4.民族:アラブ人(90.3%)、クルド人、アルメニア人、その他(9.7%)(2009年 CIA The World Factbook)
5.言語:アラビア語
6.宗教:イスラム教90%(スンニー派 74%、アラウィ派、ドルーズ派など 16%)キリスト教10%
7.通貨:シリアポンド(SPリラとも言う) 1シリアポンド=100ピアストル。100SP≒250円で計算。
※ブログの日付は旅行当時に合わせてますが、帰国後10年以上経てから記事を書いているので実際のアップ日は2018.10.30です。
2007.01.12(金)
ダマスカスを13時に出発した大型バスは順調に歩みを進める
そして16時、「ここがパルミラだ」と降ろされる。
ダマスカスからのバス。荒野の鉄道レール
ドライブインみたいなちょっとした建物があるだけで、他に何もないこの場所が、まだパルミラから3km程度離れた場所だと気付く頃にはもうバスは遥か彼方に遠ざかっていた。
『ちっ、またしてもか・・・』
どうやら私とこの国の公共交通機関と相性が良くないようだ。
仕方が無いのであちらがパルミラと言う方向に荷物を転がして歩いていると親切な現地人が逆ヒッチしてくれた。
到着した場所。左下みたいな建物だけあった。
ここでは歩き方に載っていたサン・ホテルという安宿に泊まる事にする。
レストランで定食とコーラを頼み、腹を満たしてからレセプションへ行くとイラクの紙幣が置いてあり、物珍しさと、100SPという安価さからついつい買ってしまう。
レストランと食事
食事を終えたら観光だ。
ペトラでペトラ・ナイトを楽しんだように、ここはここでパルミラ・ナイトと洒落込むことにした。
遺跡内は、一部入場料がかかる所を除いて敷地自体は開放されているので、通路をただ歩くだけなら無料というのも良心的だ。
夜のパルミラ
ここでもオフシーズンの所為か?
歩いても殆ど人とすれ違う事も無い。
パルミラ遺跡
静けさの中、太古の歴史に思いを馳せながら、今の風を吸う。
あまりにも贅沢な瞬間がここにあった・・・
パルミラ
そして、夜のパルミラはどこまでも幻想的だった・・・
パルミラ遺跡と隣接する市街
2007.01.13(土)
女王の都パルミラ。
この遺跡を世にしらしめているのは、紀元270年頃にここを統治し、一時期、小アジアやエジプトをその支配下に置き、ローマ皇帝アウレリアヌスの進撃に最後まで抵抗した女王ゼノビアが居たからだ。
まずはその遺跡の全貌を眺めようと、高さ150mの岩山の上にあるアラブ城へ向かう。
アラブ城
こんな何もない都市に、何故栄華を極めた都が存在したのか?
それはここが東西を結ぶ交易路の数少ない水源をもつ場所だったからだと言われている。
アラブ城を後に、今度はパルミラ遺跡その物の見学へ向かう。
パルミラ遺跡
中東3P
ペトラ(ヨルダン)、パルミラ(シリア)、ペルセポリス(イラン)の3つの遺跡の頭文字をとったこの言葉は、この辺りを周る旅行者で知らない者はいないだろう。
列柱道路に四面門、ベル神殿
中段:円形劇場
ここだけが、唯一女王の存在で有名になったと考えると、3Pの響きも男性2,女性1の比率となり、なにやら淫靡な響きを持つ。
そんな遺跡がこのパルミラだった。
上段:記念門、中段以降:ベル神殿
女王ゼノビアは最後、ローマ皇帝アウレリアヌスの捕虜となり、ローマに護送される途中に亡くなったという説と、ローマに行き凱旋式で晒し者になる辱めを受けたのちそのままローマで余生を過ごすという2説があるが、その真偽の程は今となっては定かではない。
パルミラ
ただ一つ、その時代の世界帝国であったローマに、戦いを挑んだ女傑が居た。
それだけは揺るぎのない事実であろう・・・
パルミラ
午前中いっぱいかけてパルミラを見て十分に満足したので、ここを離れることにした。
パルミラ市街。博物館は入らず。
13時、バスは出発する。
遠ざかるパルミラは、その在りし日の栄光を偲ばせる。
目を閉じると、古代の世界が広がり、私のロマンティシズムを刺激する。
するとゼノビアが不意に現れ、私にこう語りかけてきた。
そう、
「私の事を女王様とお呼び・・・」
と・・・
※ここも2011年から続くシリア騒乱により一部破壊されたり廃墟になったりした為、2013年以降危機遺産となってます。