ボスニア・ヘルツェゴビナ スルプスカ共和国
左図:GNVより。右図はWikiより抜粋の2008年次の民族分布
基礎データ(2018外務省HPより抜粋し一部加筆)
1.面積:5.1万平方キロメートル
2.人口:353.1万人(2013年:国勢調査)
3.首都:サラエボ(約31万人)
4.民族:ボシュニャク(ムスリム)系44%、セルビア系33%、
5.言語:ボスニア語、セルビア語、クロアチア語
6.宗教:イスラム教、セルビア正教、カトリック
7.通貨(2006年旅行時):兌換(コンベルティビルナ)マルク(KM) 1KM=100P(ペニーガ)。イメージしやすい1KM≒80円として計算。
※リュブリャナ(スロベニア)出発からクロアチアのプロチェまでの記事は「激闘の記録」「第15話 完璧な計算(舞台国:ボスニアヘルツェゴビナ・クロアチア)」にアップしているので、そちらも参考に。
※ブログの日付は旅行当時に合わせてますが、帰国後10年以上経てから記事を書いているので実際のアップ日は2018.09.16です。
2006.12.09(土)
サラエボの次の当初の予定は、クロアチアの沿岸部に出てドブロブニクを目指すつもりだった。
だが、ここにきて目的地を真逆に変更して訪れたのは、既に訪れていたクロアチアの首都ザグレブに向かう鉄道の途中下車になるバニャルカという街だった。
サラエボ→バニャルカ
ここに来た理由。
それはサラエボの宿でガイドブックを読んでいた時、ここがボスニア・ヘルツェゴビナ内、スルプスカ共和国の首都だということに気付いたからだった。
若干の説明をするとボスニア・ヘルツェゴビナは、ボスニア(イスラム教徒)ヘルツェゴビナ(クロアチア人)連邦とスルプスカ共和国(セルビア人)の2つの構成体による共和制国家だ。
ボスニア・ヘルツェゴビナ(国全体)の首都はサラエボ、そしてボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都もサラエボ、しかしスルプスカ共和国の首都はこのバニャルカという場所だったのだ。
鉄道を降りて要塞へ
スルプスカ共和国など、まずこのエリアに興味がない者なら、例えこの地域を周っていても気付かずに通り過ぎていくだろう。
それにこの街は地球の歩き方・中欧版には載っておらず、ロンプラ東欧版のボスニア・ヘルツェゴビナに記載されていたのみで、さらに言うなら見所らしい見所も書かれていなかった・・・
それでもここに来たのは、モスタル、サラエボと周りこの国に興味を持ってしまっていたので、セルビア側の核とも言える首都バニャルカを黙って通り過ぎる事が出来なくなってしまったからだった・・・
ボスニア・ヘルツェゴビナという民族のモザイクの国、そのラストピースがここだった・・・
地図で見て要塞が唯一の見所と感じたので速攻で訪れた
バニャルカに到着したのは15:30時、サラエボで調べた折り返しの便は深夜01:25時。
駅に荷物預かりは無かったが、隣接するバスターミナルが22時まで預かってくれるので、そこをギリギリまで利用して観光する。
バニャルカ街並
バニャルカは人口は約25万、ボスニア・ヘルツェゴビナでサラエボに次ぐ、2番目に大きい都市だ。
その街を歩き始めて直ぐに気付いたのは、ここがサラエボとは全く違い、どこか無機質さと薄暗さを併せ持つ、ベオグラードに似た雰囲気を持つ場所だという事だった。
バニャルカ市街
本来なら訪れる予定の無かったが、首都旅行者の矜持にかけて訪れたこの街。
数時間の僅かな滞在であったが、それでも来てよかったと思えるものだった・・・
バニャルカ市街
そしてこの晩を、予期せずこの街で過ごす事になった・・・
※経緯は→激闘の記録」「第15話 完璧な計算(舞台国:ボスニアヘルツェゴビナ・クロアチア)」を参照。
2006.12.10(日)
35ユーロとここにきて最高値を更新したホテルは、朝食が美味しいのが救いだった。
サラエボ行の便も午後13時過ぎ、大分時間が余っている。
どうせやる事も無いからと見所の無い街へ繰り出すことにした。
ホテルの朝食とバニャルカ市街
日が暮れてからと日中では街の印象は当然変わる。
ただ、ここに関しては、やはり”セルビア人の街”というのがベースだった。
市場
活気がありそうに見えながらもどこか冷たさを感じてしまう市場。
季節の所為ではないだろう。
要塞
人口はそれほど多くない、良くも悪くも人懐っこさは無いので歩いていても観光客と好奇の目で見られることも無ければ寄られることも無い。
気ままに散策するにはお誂え向きだった。
市街。グッドラックに思わずパチリと撮影
ユーゴスラビア時代を偲ばせる、どこか無機質な建物も多い。
だけど広場ではサラエボで見たチェスに興じる人もいる。
チェス
ここはセルビアで、そしてボスニア・ヘルツェゴビナだった。
モニュメントが気になって
もともと街にこれといった見所がある訳ではない。
自分で見所を作りながら出発までの時間を潰していったが、それが思いの他功を奏したのか?
この街に来て、思いの他1泊して良かったと思える自分がいた・・・
近代的な形の教会
そろそろ出発が近づいていた。
預けていた荷物をピックアップして駅へと向かう
ホテルと駅まで
日曜の昼間。
平日でも左程人がいないと思える鉄道駅はガラガラだ。
出発したのは13:15時、私のいるコンパートメントには誰も来ず、独り占めだった・・・
駅
途中駅と客席
サラエボで停車すると一人の男が私のコンパートメントに入ってきた。
身長2m近くある大男だったが、この辺りではそれ程珍しくはない。
ムスリムでモスタルに住んでいるからこれから戻るという。
(『ちょっと困ったな・・・』)
モスタルには既に訪れていたが、部外者である私が何かそこについて語ってしまうと彼のどこかに引っかかってしまうかもしれない。
紛争は私にとってはニュースの中の出来事だが、彼はその当事者だ。
だが、私の心配は杞憂で、アドナと言う24,5才に見える若者はとてもフレンドリーだった。
勿論紛争の話題は避けたが、彼との移動を取り留めも無い、当たり障りのない会話で穏やかに過ごしていた。
列車は18時少し前、もうそろそろモスタルに到着する頃だった・・・
すると、突然彼はトーンを変えてこう話しかけてきた。
「スターリーモスト(石橋)は俺がジュニアハイスクールの頃に、クロアチア人が破壊した、だがそれを奴らは俺ら(ボシュニャク人)の所為にした。俺は目の前でその橋が奴らに破壊されたのを見ていたんだ!※2018年次ではクロアチア人が破壊されたとされている)。」
「俺は紛争の時、14才から15才の1年間、みんなと一緒に監獄に入れられた。それがどれだけキツかったか・・・」
「紛争前、俺たちはそんな想像はしていなかった、俺の親友はクロアチア人、今でもそうだ。でもあんなことが起こったんだ・・・」
「俺は絶対にあの時の事を忘れない・・・」
彼の中に真剣な、怒りのある表情が見てとれた。
勿論彼は決して私に当たったり非難したりしている訳ではない。
ただ、ここと関係無い誰かに・・・
ここでに起きた悲劇を言わずにはいられない。
そんな感じだった・・・
旅行をしていると時として、他人の感情の中の一部に入り込んでしまう。
ただ、私はあくまでもここにとっては物見遊山で遊びに来ている単なる観光客だ。
出来る事はたった一つ。
彼の真剣さに応えるように『分かった、君の言った事は忘れない』と言う事だけだった。
彼の悲劇は悲劇として、他にもそれぞれにそれぞれの悲劇が起こっている。
それがこの国で起きた紛争だったのだろう。
バルカンの火薬庫、民族がモザイクの様に入り乱れる国、ボスニア・ヘルツェゴビナ。
広義での民族は南スラブと同一なのに、いや、同じだからこそ宗教によって分けられた民族で、時代時代に血で血を洗う歴史が繰り返される。
人は何時か紛争を無くせるのだろうか?それとも人がいる限り紛争の種は尽きないのだろうか?
この国は一見の旅行者では計り知る事の出来ない複雑さを孕んでいた・・・
以前イスラエルを訪れた時、エルサレムを特異点と感じたのに似た感覚(参考「シンギュラリティー(エルサレム:イスラエル)」)。
民族と宗教、パワーポリティクスの中心点・・・
ここはエリアとして特異と感じる地域だった。