アフガニスタン
国境⇔カブール(シェアタクシー)
基礎データ(2018外務省HPより抜粋し一部加筆)
1.面積:652,225平方キロメートル(日本の約1.7倍)
2.人口:2,916万人(2016年~17年アフガニスタン中央統計局 Afghanistan Statistical Yearbook)
3.首都:カブール
4.民族:パシュトゥーン人,タジク人,ハザラ人,ウズベク人等
5.言語:公用語であるダリー語,パシュトゥー語の他,ハザラ語,タジク語等
6.宗教:イスラム教(主にスンニー派のハナフイ学派であるが,ハザラ人はシーア派)
7.通貨:アフガニー 1AFN≒2円で計算。(実際はパキスタンルピーより若干価値が高いが、中途半端な換算値になるので2円として計算)
※ブログの日付は旅行当時に合わせてますが、帰国後10年以上経てから記事を書いているので実際のアップ日は2018.12.11です。
尚、ここは区分的には中央アジアとなりますが、セカンドミッション時に訪れた中央アジアの国はここだけなので、出発したパキスタンに併せて記事は南アジアに分類してます。
2007.02.17(土)
時差の都合上、30分前に戻り10時に102ヶ国目となるアフガニスタンに入国。
手続きはこの国のイメージとは裏腹に、実にあっさりとしたものだった。
首都カブール行のシェアタクシーも直ぐに見つかり取り敢えずはホッとする。
トールハム国境
ところで、アフガニスタンとはどんな国なのだろうか?
私なら
恒常的に危険な国
と答えるだろう。
長らく続いた内戦による影響は勿論、イスラム原理主義であるタリバーンの存在。
外国人ジャーナリストや観光客も時折誘拐や殺害される国。
私が物心がついてから、一度として落ち着いた事の無い国、それがアフガニスタンだった。
厄介なのはだからといってイラクのバグダッドの様に、個人旅行者が行くのがほぼ無理な状況ではなく、時として行けてしまう事だ。
そこに首都がある限り、そしてそこが行ける限り、狙撃するのが首都旅行者たる私のスタイルだ。
近い過去に訪れていた日本人旅行者数名に会っていた事もあったが、ペシャワールの宿でつい最近戻ってきたイタリア人夫妻と宿を共にしていた事が個のアフガン行を後押ししていた。
一か八か?ならやらない、七か八か?ならやる。
少なくとも書類上の手続き全てが問題なく行われ、公共交通機関も動いているなら、ゴーサインだった。
国境から最初の街まで
国境から最初の中都市ジャララバードを過ぎ、しばらくたったら休憩となる。
この後の予測がつかないので取り敢えず「食べられる時に食べる」という旅行者の鉄則を守ることにした。
ライスのセットが70AFN、飲んだペプシが20AFNだった。
そしてカブールを目指し、峠を越えていく。
イメージしていたアフガニスタンらしい風景がその道中にあった。
峠越え、如何にも山岳地といった峠道を走る
14:30時、首都カブール郊外のバススタンドに到着。
そこからタクシーで市の中心に近いコテサンギ・チョークへと向かう。
イスラム原理主義組織、タリバーンによって顔が破壊された世界遺産のバーミヤン。
そこに向かうバスがここから出ると情報ノートに書かれていたので、出発するバススタンド間近のホテルのレストランに向かう。
最初にびっくりさせられたのは、服装さえスーツと革靴に変えれば全く日本人と見分けのつかない人が数人いた事だ。
人種的にかなり近い民族がここにはいるらしい。
ただ、ここを訪れた目的は別だ、バーミヤン行の可能性を聞きこんでみる。
一応あるが早朝発らしい、それならここからそのまま出るのが好都合なので宿泊をお願いするも、政情不安定の所為か?外国人という理由で断られてしまう。
『うーむ・・・』
取り敢えずルートはあるらしいので、バーミヤン行は一旦保留にして、ホテルを探すことにした。
だが、思いのほか、安宿が見つからない。
ロンプラ(英語のガイドブック)の安宿はダブルで20ドルだが野戦病院のベッドみたいな感じで、とてもその金額を出そうとも思えない部屋だった。
こんな時に変なスイッチが入るのが私の悪い癖だった。
安宿が元々あって知られるところだったら興味がわかないが、無いと言われると探したくなる。
聞きこみながら数軒回り、これはという安宿が見つかっても「外国人はダメ」という治安上の理由で断られる事を繰り返す。
加東氏に申し訳なく思ったが、こうなると無駄に意地になってしまった。
そしてようやくみつけた、「外国人OK」アブシン・ホテルはホテルとも言い難い、5,6階建ての屋上にあるペントハウスで、トイレは1階下の汲み取り式、室内の暖房は昔懐かし達磨ストーブで、薪をくべる方式だった。
お値段1部屋2人で300アフガニー(約600円)、1人頭はその半分なので恐らく市の中心では最安に近いだろう。
残念ながら達磨ストーブの薪の料金がオプションで、段ボール一箱50アフガニーかかるが、このコストは許容範囲とするべきだろう。
オーナーのおじさんから「鍵はしっかりとかけてね!」と言われた。
時折泥棒も出るらしいが、この辺りでは当然の事だろう・・・
タクシーで市内の中心に向かって。右下はホテルからの景色
取り敢えず宿のすぐ近くにローカル・レストランと屋台があったので、軽くサンドウィッチを食べる。
そしてその後、持っていたUSDを両替する。
第三世界ではちょくちょくあるが、ここも高額紙幣と小さな紙幣ではレートが異なっていた・・・
2007.02.18(日)
やけに肌寒く冷え込む朝。
6時、ペントハウスのドアを開けて外を眺めると雪が降っていた・・・
『・・・』
『バーミヤンは無しだな・・・』
加東氏も、同じ意見だった。
インフラの不十分なアフガニスタンで、時間も早朝と言うだけではっきりとしない中、バーミヤンに向かうには余りにも天候が悪すぎる、というか雪は考えうる中で最悪だった。
また次回があるとは思えないが、今回はバーミヤンに縁が無かったのだろう。
最悪日本帰国後にでも訪れ、餃子でも食べればバーミヤンに行ったことがあると言い張れるからそれで良しとしようではないか。
そう思って2度寝する。
次に起きたのは11時。
家々に雪が積もり、道は泥土と化していた。
『久しぶりに使うかな?』
ゴアテックス製のソックスを出し、靴下の上から履く。
靴もゴアテックス製だがカバーするのは踝までで、ソックスならひざ下までになるので、街歩きに問題は無いだろう。
ローカルレストランで肉シチューを頬張り、観光案内所を探すことにした。
上段左がペントハウスからの景色。バスに日本国旗が入っている
場所の検討がつかないのでタクシーに聞いたら知っているから乗って行けと話がまとまった物の、乗ってから話すと実は全く知らなかったと判明する。
腹が立ったので「知ってると言ったから乗ったのに!」とお金は払わずに途中で降り、別のタクシーに乗り換える。
今度のドライバーはきちんと知っていて、市内からやや外れた空港付近の、日本なら観光庁に相当するアフガニスタン・ツーリズム・オーガニゼーションに到着する。
ここは治安の悪い国だ。観光客もまばらでしかないのでツーリスト・インフォメーションみたいな簡易的な物は需要が無いのだろう。
ここのチーフのフォウジア女史は27年間アメリカに居て戻ってきたそうで、ホスピタリティーに溢れ、アフガニスタンと書かれた明かに国の歴史書と思えるハードカバーをわざわざくれて、最後は何故かスタッフ全員と記念写真まで撮ってしまった。
観光案内所付近
かつて訪れたコンゴ民主共和国やリベリアといった危険度の高い国の観光省も、同じように親切な人は過剰とも思えるぐらいまで親切だった。
もし、その優しさが明日の生存が保証されない危険さからきているのなら、何と皮肉な事なのだろうか?
柄にもなくそんなことを考えてしまった・・・
カブール市内。日本の援助を示すバス停の国旗。右下は軍事施設で撮影禁止な独立記念碑をこっそり
カブール市内の泥土の中を一人歩く。
オールシーズンが同じだとは思わないが、たまたま訪れたこの時期の、どんよりとした気候がカブールの今を物語っているような気がした・・・
道路はぬかるみ
カブール市内。右下はペントハウスの達磨ストーブ
18時、ホテル付近でサンドウィッチと串焼きを頬張って戻る。
街路灯の無い夜のカブールは、暗過ぎて何か出来る様な街ではなかった・・・
灯りの乏しいカブールの夜景。右下は達磨ストーブの灯り。
2007.02.19(月)
薪が無くなるとストーブが消え、寒くなるので起きてまたストーブに火を灯して朝を迎える。
今日もまた朝は雪でうだうだやっている内に11時を過ぎていた。
昨日と同じ肉シチュー(これがコルマという名前だと今日分かった)を食べ、今日は加東氏と一緒に観光に出ることにした。
市の中心。米軍のレーションの横流し品が売っていた
見所は?と言われてもあまり知られていないカブールに何があるのか良く分からい。
一応ロンプラに出ていたナショナル・ギャラリーに訪れる。
5USD(約600円)をパンフレットを100(200円)で買っていたのもあったのか?
何故か20アフガニー(40円)に負けてくれる謎仕様だ。
ナショナル・ギャラリー
一旦昨日のアフガニスタン・ツーリズム・オーガニゼーションに立ち寄りパンフレットを購入。
これも250アフガニーで高そうに思っていたら何故か100(200円)に値引いてくれた。
動物園に入ろうかと思ったが加東氏の反応が芳しくなく。
無理してみる物でも無かったので結局断念する。
カブール市内。右下が動物園
付近の高台で景色を眺めていると現地の若者たち数名が寄ってくる。
やはり観光客は物珍しいのだろう。
彼らはどこまでもフレンドリーだった。
動物園付近の高台から
ここで加東氏と別れてそれぞれで周る事にする。
市街
かつてこの国が安定していた1970年代に、ヒッピーで賑わっていたと言われるチキンストリートを訪れる。
そこで見た土産物用のカーペットは、旅の途上で無ければ買いたいと思える、エスプリの利いた物だった。
チキンストリート
歩き回っていると一際目を引く建物があった。
ランドマーク・ホテル
名前そのままに、市の全景を眺められると、一応レセプションに話してから屋上に上がった
ランドマーク・ホテル。中にショッピングセンターも入っていた。
市街を動き回り、観光省にも訪れ、街の全景も眺められた。
カブールはもう十分だった。
夜は屋台で餃子みたいに見えたマントウという食べ物を食べてみる。
好き嫌いの激しい私には外れ籤で、不味い以外の感想が出てこなかった。
結局半分残し、TVでアメリカのプロレスが放送されている別のローカルレストラン行き、ポテトとハンバーグを食べ、ようやく落着いた。
上段がマントウ。下段はローカルレストランで話しかけてきた青年
ペントハウスに戻ると、隣の部屋に現地人の10人ぐらいのグループが居て、彼らに招かれたので加東氏と訪れる。
言葉は通じないが、どこまでもフレンドリーな彼らとのひと時は楽しい物だった。
2007.02.20(火)
今日は出発の日。
いつもとは違って早く起き、7時にはチェックアウトする。
バススタンドに着いたのは07:30時だった。
ペントハウスからの眺めと泊まっていた部屋(右から2番目の扉)
国境行のシェアタクシーは1人500アフガニーで直ぐに見つかったが、我々が最初の客だったようで待つ羽目になる。
ドライバーは早く出したかったのか?我々の次のアフガニスタン人とパキスタン人に400アフガニーと少し値引きして乗せてしまう。
待ち時間が30分程度だったので、我々が少し高いのはちょっと嫌だったが、最初に交渉もしていなかったし、早く出てくれるのならと自分を納得させることにした。
シェアタクシーを市街を抜けるところまで。UN絡みの装甲車を何度か見かけた。
アフガンらしい峠道。
途中タイヤがパンクして一時停止する。
どのくらいかかるか?
少し不安になったが30分程度で修理を終えてまた出発した。
戦車モニュメント。最下段左がパンク修理した所。
平坦な道に変わってから
カブールを出て4時間。
12時に国境に到着。
最下段:国境付近
出国手続きはあっさりとしたもので、直ぐに終わりパキスタンへ入国。
3泊4日。短いアフガニスタン行
泥土の中を歩き回った雪のカブール
ここは、とても印象深い首都だった・・・
※旅行当時の記事は「謎の日常」の「乱暴3・怒りのアフガン...(カブール:アフガニスタン)」を参照